現代の日本に残る城の多くは、実は当時の姿そのままではありません。
戦後になってから鉄筋コンクリートで再建されたり、外観だけを「それらしく」整えたものも少なくないのです。
では、なぜ本来の城が失われてしまったのでしょうか。
その大きな理由のひとつが、明治時代に出された「廃城令」です。
新政府の方針によって全国の城は次々と取り壊され、かつての日本を象徴する壮大な城郭は急速に姿を消していきました。
しかし、すべての城が消え去ったわけではありません。幸運にも解体を免れ、江戸時代の姿をほぼそのまま残している「現存城」もあります。
当時の人々の努力や偶然が重なった結果、私たちの前に残された貴重な文化遺産なのです。
廃城令の背景
廃城令は1873年(明治6年)に出されました。
背景には、近代国家を築こうとする明治政府の方針があります。
西洋列強に肩を並べるためには近代的な軍事制度が必要であり、旧来の城郭は役立たずと判断されたのです。
石垣や天守は大砲の前では脆弱であり、軍事拠点としては近代要塞に取って代わられる運命にありました。
また、膨大な維持費は新政府の財政を圧迫する要因ともなっていました。
こうした事情から、廃城令は「時代の要請」として実行されたのです。
廃城令の影響
廃城令によって、全国の城郭は急速に姿を消しました。
天守が解体され、石垣が崩され、堀は埋められて農地や宅地に転用されました。
廃材は売却され、屋根瓦や木材が地元の住宅に再利用された例も多くあります。
こうした光景は、日本各地で同時に進行しました。結果として、江戸時代の城郭の大半は失われ、現在に残る「現存天守」はわずか十二城のみとなったのです。
ただし、すべての城が完全に破壊されたわけではありません。
軍事施設や官公庁として利用された城もあり、また、地域住民や有力者の保存運動によって解体を免れた城もありました。
この点において、廃城令は「一律の破壊命令」ではなく、地域の事情によって運命が分かれた政策だったともいえます。
城郭保存への転換
明治後期になると、失われていく城郭に対して「歴史的建造物として残すべきだ」という意識が芽生え始めます。
観光や教育の観点から城を保存しようという運動が各地で起こり、文化財としての価値が見直されました。
実際に、姫路城や松本城は保存活動によって取り壊しを免れ、国宝として今日に伝わっています。
この流れは20世紀に入るとさらに強まり、昭和期には文化財保護法が整備され、城郭は歴史遺産として明確に位置づけられるようになりました。
姫路城の世界遺産登録(1993年)はその象徴的な出来事といえるでしょう。かつて廃棄の対象だった城が、今では世界に誇る文化財となっているのです。
日本の城の特質
廃城令によって失われたものの大きさを理解するには、日本の城が持つ独自性に目を向ける必要があります。
西洋の城が主に石造で築かれた要塞であったのに対し、日本の城は木造建築と石垣を組み合わせた複合体でした。
天守は軍事拠点であると同時に権威の象徴であり、城下町を見下ろす存在でした。
さらに、堀や曲輪を重層的に組み合わせることで、巧みに防御と美観を両立させていました。
これらの特質は、日本人の美意識や地域文化と深く結びついています。
城は単なる戦争の道具ではなく、地域社会の中心であり、信仰や祭礼とも結びついていました。廃城令によって城を失った地域は、同時に「歴史の核」をも削がれたともいえるのです。
今日に残る城郭
現存する城郭は、廃城令をくぐり抜けて残された数少ない証人です。
そこには「残すべきだ」と願った人々の努力や、歴史的偶然の積み重ねがあります。もし当時の判断が違っていれば、日本の城郭文化はほとんど失われていたかもしれません。
今日、城は観光資源であると同時に、地域の誇りであり、また教育の教材としても重要な役割を担っています。
廃城令は破壊の象徴であると同時に、その後の保存運動の出発点でもありました。
だからこそ、現存する城を訪れることは、単に美しい建築を眺める以上に、日本の近代化と伝統保存のせめぎ合いを体感する行為でもあるのです。
おわりに
廃城令によって日本の城郭は大きな打撃を受けました。しかし、その中で生き残った城は、過去と未来を結ぶ貴重な存在として今に伝わっています。
城郭をめぐる歴史を振り返ると、私たちは単なる建築物以上のものを見出すことができます。
時代の変化、国家の方針、地域の人々の意志が凝縮されているのです。
廃城令は破壊の歴史であると同時に、保存の歴史の始まりでもありました。
日本の城はこれからも、失われたものと残されたもの、その両方を思い起こさせる存在としてあり続けるでしょう。