実は日本に存在している多くのお城は、当時のデザインではなく適当に作り直された物がほとんどです。
お城巡りが好きな方なら、「現存天守は日本にわずか十二しかない」という話を耳にしたことがあるのではないでしょうか。
なぜこれほど多くの城が失われてしまったのか?その理由のひとつが明治時代に出された「廃城令」です。
この記事では、廃城令が出された背景とその影響、そして奇跡的に残された現存城の価値について、お話ししていきます。
日本の城はなぜ失われたのか?「廃城令」の正体
明治維新によって新しい時代が始まった日本。
1873年(明治6年)、政府は「廃城令」という政策を発令しました。
簡単にいえば、全国に点在していた城を「不要」とみなし、取り壊していく方針のことです。
城といえば戦国時代や江戸時代を象徴する存在ですが、明治政府にとっては「過去の遺物」にすぎませんでした。
1873年 明治政府が下した決断の背景
では、なぜ政府はわざわざ城を壊すことを決めたのでしょうか。
理由は大きく3つあります。
1. 軍事的に時代遅れだった
西洋の列強に並ぶためには近代的な軍隊や要塞が必要でした。
大砲の前では、木造と石垣の日本の城はほとんど無力です。
2. 維持費がかかりすぎた
広大な敷地と巨大な建物を維持するための費用は、新政府にとって大きな負担でした。
3. 近代国家の象徴にはならなかった
政府は「新しい時代」を強調する必要があり、旧体制の象徴である城はむしろ邪魔な存在と考えられたのです。
こうした事情から、廃城令は「時代の要請」として実行されたといえます。
廃城令で失われたもの守られたもの
廃城令が出されると、日本各地の城は次々に解体されていきました。
- 天守は取り壊される
- 石垣は崩され、堀は埋められる
- 瓦や木材は売却され、地元の家に再利用される
その結果、江戸時代の城郭の多くが姿を消し、現在まで天守が残る城はたった十二しかありません。
しかし、すべての城が消えたわけではありません。
- 軍事施設や官公庁として利用された城
- 地域の人々の保存運動によって守られた城
こうした例外もあり、後世に残された城は「奇跡的な生き残り」といえるのです。
保存の声が広がった明治後期とその成果
時代が進むと、人々の意識にも変化が現れます。
「城はただの軍事拠点ではなく、歴史的に価値のある建物ではないか」
こうした考えが徐々に広まり、保存活動が各地で始まりました。
特に有名なのは「姫路城」と「松本城」です。
取り壊されそうになったものの、市民や有力者の尽力で保存され、今日では国宝、さらには世界遺産として世界に誇れる存在となりました。
かつて「不要」とされた城が、時代を経て「宝」と認識される。ここに歴史の皮肉と、人々の努力の尊さが表れています。
世界に誇る姫路城・松本城|守り抜かれた奇跡
現存する城の中でも、姫路城や松本城は特に有名です。
- 姫路城:白鷺城の名で親しまれ、1993年にはユネスコ世界遺産に登録。保存活動の成果を象徴する存在です。
- 松本城:黒い外観が特徴で、「烏城(からすじょう)」とも呼ばれる。江戸時代の姿をほぼ完全に残す貴重な遺構です。
この2つの城を訪れると、単なる観光地以上に「守り抜かれた歴史の重み」を感じることができます。
日本の城の独自性と地域社会への影響
失われたものの大きさを理解するには、日本の城の特徴を押さえておく必要があります。
- 西洋の城が石造の要塞だったのに対し、日本の城は 木造と石垣の融合
- 天守は防御施設であると同時に 権威の象徴
- 堀や曲輪を組み合わせることで、 防御と美観を両立
さらに、城は単なる軍事施設ではなく、祭礼や経済活動の中心でもありました。
廃城令によって城を失った地域は、同時に「歴史の核」をも失ったといえるのです。
現存城が語りかけるもの|過去と未来をつなぐ存在
現存する十二の城は、偶然や努力が積み重なって残された「奇跡の証人」です。
そこには「守りたい」と願った人々の思いが込められています。
もしその意志がなければ、今私たちが目にする城はほとんど存在しなかったでしょう。
だからこそ、現存城を訪れることは単に美しい建築を眺めるだけでなく、「日本の近代化と伝統保存のせめぎ合い」を体感することでもあるのです。
まとめ|廃城令が残した教訓と、私たちができること
廃城令は、日本の城を壊滅的に減らした「破壊の象徴」でありながら、同時に「保存運動の出発点」ともなりました。
現存する城を前にすると、そこに刻まれたのは単なる建築の美しさではありません。
「時代の変化、国家の判断、そして人々の思い」そのすべてが凝縮されています。
これから城を訪れるとき、ただの観光地としてではなく、そうした歴史の背景に思いを馳せてみてください。
きっと、見える景色が変わってくるはずです。